もう梅雨はすこし前に通りすぎて、じりじりと長時間焼かれつづけたアスファルトの上を、みんなしてせわしなく行き交う時期が到来した。服の中、肌を伝うのは決まって汗ばかりのこの季節が。 真夏日に咲き誇るその花は恐ろしいほどの原色を撒き散らして網膜を刺激する上に、濃い色をした葉にきらりと光る水滴が容赦なく降り注ぐ陽光を反射して、立見の瞼を焼いた。けれど目を逸らすことはしない。逸らせばまた、彼女が消えてしまう気がした。 「お好きでしたら、いくつか切って差し上げますけれど」 たずねる少女を、立見は口を閉じたままみつめる。 少女も気に止めることはなく、無言の立見にいくつか花をえらんで切り、どうぞ、と差し出す。 白い腕が、鋭い陽射しに晒される。 地面にできた影の、なんとたよりないことか。 「……ありがとう」 「お気をつけて」 スーツ姿に裸のばらを携えて、果たして周囲の目に立見はどのように映るだろうか。 駅までの路を歩きながら、立見はぼんやりと右手に視線を下ろす。 (すべてわすれてあげる) 間違いは、本当にこれだけ。この一回だけだ。 本気で心変わりしたわけでも、ましてや別れる気など毛頭なかったのだ。立見は今も変わらず、あのばらの庭の少女を―――妻を愛している。 けれど彼女はその言葉を残して家を出た。ようやくあの目を焼かれるような庭でみつけたときには、その言葉のとおり、本当に―――本当にすべて忘れてしまっていた。あるいは忘れたふりをしているのか、立見には量りかねるくらい、嫌みなそぶりも怒りの態度も、今の彼女からは見受けられないのだ。 どちらにせよ、彼女が立見の前から姿を消した事実に変わりない。彼女は言い訳の言葉を聞くこともなく、忘れる、と言った。すべて忘れるから、大丈夫、と。 その事象を忘れるものだと思っていた立見に、しかし彼女が立見自身すら忘れてしまったのなら、立見はもうどうしていいのかさっぱりわからない。 謝ろうと声をかければ、きょとんとして、どちらさまですか?、と返答される始末なのだ。怒っているのはわかるけど、頼むからそういう冗談はやめてほしいと頼めば、今度は怪訝な顔で立見を見上げた。 どなたかと勘違いされてませんか?、警戒した彼女が一歩後ずさったのを見て、もうそれ以上何も言えなかった。本当に他人のように立見に接する彼女に、立見は底なしの絶望を感じざるをえなかった。 * * * 「今日も暑いですね」 声のした方向に顔をあげると、見知った少年が笑っていた。 「暑いねえ」 夏の制服の、そのシャツの白さが、まりえを懐かしい気持ちにさせた。数年前にはまりえも少年と同じ学校の制服を着ていたのだ。しかし自分とは違い、少年の制服姿は健康的で、額には汗が光っていた。 「まりえさん、ちゃんと水分摂ってる?日射病になっちゃうよ。あんまり庭にばっかり出てちゃだめだよ」 「光合成してるのよ」 「まりえさんが言うと、ほんとっぽくて怖い」 「ふふ」 半袖から伸びた少年の腕が、しゃがんだまりえの上に翳されて、その手で影をつくった。 でもほんとに危ないから気をつけてね。にこりと笑んだ少年を見上げて、また俯きながら、まりえも瞼を閉じて微笑んだ。 「今日も来たの?」 「なあに?」 「サラリーマンのお兄さんだよ」 「来たよ。たぶん帰りも来ると思う」 「ふうん」 不服そうな少年の声に、今度は見上げることはせずに、まりえは黙々と足元の草を抜いた。この庭の土は栄養が行きとどいているのか、はたまた土中に虫が多いのか、ほとんどの雑草が花まで開いている。 ちいさなきいろの花が、まりえの手により次々と土から離されていく。細長い根っこから土を落とすまりえの指は、どんどん茶色に塗れていった。 「熱心だよね」 「ちゃんと手入れしなきゃ、ばらはすぐ枯れちゃうから」 「まりえさんじゃなくて」 「…………よくわからないわ」 もう顔を上げないまりえを、少年は庭と外界とを分ける柵にもたれながらじっと見つめる。それでも、まりえが顔を見せることはない。雑草はどんどん抜かれ、まりえの足元には土以外に何もなくなっていく。 「わからないのよ、どうして来るのか」 「そう」 ぼくには、わかるけど。 口の中のつぶやきは、当然まりえにはきこえない。きこえても、きっとまりえは尋かないだろう、その言葉の意味など。 境界線に立つ少年は、そうしてばらの庭を後にした。 |
2007.7.19
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